運営者挨拶

~赤ちゃん子育ての悩み、一人で苦しんでませんか?~



赤ちゃんが生まれると特に初めてのお子さんの場合、ママやパパだけでなくご家族ご親類皆様が喜びと同時に疑問や不安を覚えるものだと思います。 昔の育児の仕方と今とはかなり違いますし、御婆ちゃんの知恵的な育児方法が実は間違いだったりもします。 日々の育児の中で男女平等と言いながらも、育児の負担はどうしてもママに傾いてしまいますね。

日々の掃除、洗濯、買い出し、料理などの家事に加え、何も話さない赤ちゃんが加わった生活は子供がいなかった頃とは生活が一変するでしょう。 時には愕然とすると思います。僕たちもそうでした。泣き止まない長女を外に連れ出したり、ずっと抱っこしたり・・これはいつまで続くのだろうかと思い悩んだものです。

赤ちゃんはどんどん成長し、色々な表情を見せてくれ、皆さんに癒しを届けてくれる事でしょう。 と同時に育児の大切さ、大変さ、難しさに直面し、時には辛くて、孤独で涙する事もあるのではないでしょうか。

おの小児科は「とにかく楽しい育児を」「たまには息抜きもいいじゃない」「たまの手抜きは自分へのご褒美」というフランク、ファジーな考え方を育児に追われる皆様に届けたいと思っています。

当院には数多くのホームページがありますが、あかちゃん子育て応援サイトは育児経験のあるスタッフが中心となり作り上げたものです。 決してすべてが正しいわけでもないし、そうしなければいけないというものでもありません。 ただ、立派に子供を育て上げた先輩ママからのアドバイス的なホームページだと思って頂ければ嬉しいです。 伊丹、尼崎にとどまらず、少しでも多くの子育て中のママやパパの息抜きになればなと願っています。

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、僕は4人の子供のパパです。高1、中2、小4の娘に小1の息子です。 まあ、バラェティーにとんだ方々で毎日何らかの問題が起きますが、妻含め6人(+犬のポンザレス)で幸せに暮らしています。 これも全ては司令塔の妻のお陰だと感謝していますが、男親だからわかる事、出来る事、やらないといけない事、想う事もあります。それは決して外で仕事するだけではない。

正直、「イクメン」「イケダン」などという男親を持ち上げようとするフレーズは好きではなく、昔とは違い、出来る事はどんどん男親もするべきだし、するのが当たり前だと思います。 「子供の事は妻に任せてるんで」と澄ました顔でおっしゃるパパにも出会いますが、もう時代遅れですね。。そのフレーズ自体が格好悪いと僕は思います。 仕事で毎日忙しい上に育児なんて勘弁してくれよ~との心の声が聞こえてきそうですが、勿論、出来る範囲で良いのです。 ちょっとした事で良いのです。育児に参加するのではなく、育児を「する」パパになって欲しいと男親の一人としてメッセージを送ります。 あ、そうそう、ママたちは、旦那さんが育児に奮闘している際には絶対に口出しをしないで!「これ食べさせないで」「これ買わないで」「○○は何時にあげて」「○○はささないで」などを旦那様に 指示するお母様方をよく見ますが、これは逆効果で、二度と旦那様は育児をしなくなるでしょう。任せる勇気を持って下さい!

赤ちゃんの成長は本当に早いです。ついこの前まで何も出来なかったのにハイハイしだし、お座り、つかまり立ち、そして歩き出します。 そして色々な言葉を覚え、色々な体験をし・・・あっという間に親からゆっくり離れていきます。離れればそれはそれで寂しいもの、赤ちゃんの今は今しかないのです。 そのあかちゃんの今をママだけではなく、パパや周りの皆さんも見守って欲しい。過去には決して戻れないのですから。 どうかご家族全員で赤ちゃんの健やかな成長を喜び、応援し、見守ってあげてください。おの小児科は全力でサポート致します。


(運営)医療法人 おの小児科
小野 英一
スタッフ一同


 

自己紹介

兵庫県の伊丹で小児科、小児アレルギー科のクリニックを運営しています小野英一(おの えいいち)と言います。出身は定かではありませんが関東、幼少期は神戸市東灘区で過ごしました。 途中、数年間、スイスに父親の仕事の関係で過ごしましたが、帰国後はずっと神戸です。

実家は六甲山の登山口近くにあり、遊び場の大半は山の中でした。基地を作ったりトンネルを掘ったり、鳥やクワガタ、魚やヤモリを探したり、そんな子供時代でした。 小学生の頃、塾にも行きましたが、大して勉強もせず、空気銃やガス銃といったモデルガンにはまり、結局のところ受験しましたが全滅、まあ当たり前と言えば当たり前ですね、親に申し訳ないと思いました。

中学時代は帰宅部専属で大した思い出がありません。学校ではずっと寝ていた気がします。中学受験を失敗したその続きで塾には行きました。が、その塾がとにかく地獄できつかった・・・ 詳しくは私のブログ「森田塾伝説」をご覧ください。この頃から変に物事を斜めから見る、天邪鬼な性格になったんちゃうかなと思っています。 まあ、それほど悲惨な塾でした。中学生の頃・・んー何回考えても思い出がない。これは今思えば悲しい中学生ってやつですね。三年B組金八先生、みたいな中学時代を送れたかもしれないのにね。 ちなみにその苦い思い出もあり、自分の子供たちには好きにさせています。まあ、予想通り、お勉強は今ひとつのご様子ですが、まあ何とかなるわと傍観しています。 鬼のスパルタ塾で勉強(というか特殊訓練?)したけれど、憧れの慶応、早稲田は総崩れ、残ったのは関西学院と山梨の駿台甲府でした。偏った勉強しかしていませんでしたので、公立受験は無理でした。

素直に関学に行けば良いものを、何故か親元を離れ駿台甲府高校に進みました。山梨県甲府市の駅から歩ける距離にあり駿台予備校系列の私立高校、駿台甲府に進学、予備校の教科書がそのまま高校の教科書、 先生は予備校の講師もしている、といった少々謎めいた高校でしたが、親元を離れそれなりに頑張った気がします。高校3年の途中まではラグビー部に所属し、今は想像もつかないでしょうけれど足の速い人がやるポジション、ウイングをしていました。 もっともっと教えてもらい、トレーニングし、上手になったらラグビーはより楽しかっただろうになと今思います。ラグビー留学なんてのもアリだったなとふと思う事があります。 一応、勉強もまあまあなレベルで、高校3年の時点で一番成績の良い連中が集まるクラスに入りました。そのクラスからは東大や京大などの優秀な大学はもちろん、医学部志望もいっぱいいました。 その空間に溶け込んで皆と切磋琢磨し・・と行けばよかったのですが、既に高校1年生の頃から優秀な生徒は優秀で、僕が3年で入った時点ではクラスの雰囲気や友達関係は既に固まっていて、 僕の入る隙間なんて1ミリもなかったです。そう、自分のクラスと言いながらも1年間、ずっとアウェイな感じで過ごしました。今だから言いますが、当時の3年の担任の先生にも「医学部ね~大丈夫ですか?」 と小バカにされたのを今でも覚えています。先生も小野をこのクラスに入れなかったら良かったと思っていたでしょうね、僕もそう思っていました。友達が居たクラスを離れ、進学クラスになんか入らなければ良かった、 今でも後悔している一つです。そんなこんなで高校の卒業式は欠席しました。予想通り、医学部は国立、私立とも全滅、大阪の駿台予備校で浪人生活を送ることになりました。

神戸市から電車に乗り大阪で地下鉄に乗り換え服部緑地へ・・そんな毎日を過ごしていましたが、どうも怠け癖があり時には梅田でUターン、予備校に辿りつくことなく家に戻った日もありました。 一応、医学部進学クラスに入っていましたが下から数えた方が早いくらいの成績で、んーこりゃ医者は難しいかな?なんて思っていた時、ある男と出会いました。 メインのホームページに書いていますが、今、内科医として活躍している馬渡という男です。彼はくそ真面目で朝も早くから教室に来て、しっかり自習をして帰る、そんな奴でした。 その馬渡と仲良くなり、怠けて帰ろうとする僕を引き留め、自習にさそってくれたりしたのが僕の医学部合格の大きな理由だと今、本当に感謝しています。 そんなこんなでセンター試験はまともな点数をゲットし、前期試験は不合格でしたが後期で何とか高知県の医学部に引っ掛かりました。 1浪なんかでよく合格したなと今でも不思議でなりません。こうして奇跡的に僕は医学部に進学することになったわけです。 実は・・第1志望はパイロットでしたが、身体的な理由で受験すら出来ませんでした。今でも大好きな憧れの職業です。

神戸に1年間居た後、再び親元を離れる事になり、次は南へ移動、高知県南国市にある高知医科大学、今は高知大学医学部になった国立大学です。 父親の生まれが愛媛なので四国には馴染みがありましたが、高知は初めてで、とにかくえげつなく遠い!が第1印象でした。 当時はまともに高速も整備されておらず、電車も遅い・・言うと高知の方に怒られますが、日本の秘境か??と思いました。 そこで6年間、医学部の学生として勉強に遊びにそして遊びに打ち込みました。1回生の頃は医学部なのに何故か数学や化学、歴史、ドイツ語といった訳の分からない授業があり、 どこが医学部やねんみたいな1年で正直、無駄やな~と思いました。まともに医学を勉強したのは2回生か3回生くらいから、正直、医学部が何故6年制なのか未だに摩訶不思議です。 4年で十分だと僕は思っています。特に最初の1、2年なんて無駄すぎる時間だったと思います。そこでモチベーションが下がる学生も数多く居たのではないでしょうか、何で数学せなあかんねん、みたいな。。 僕もそうでした。まあ、医学生っていうのは大体が真面目で大学デビューが多いので、そんな事も思わず数学や英語、ドイツ語、歴史学、化学なども真面目に勉強してはったかも知れませんが。 メインのホームページにも少し書きましたが、色々な理由があり、ここでもクラスに馴染めず、まともに話する友人は片手くらいでしたね。 まあ、友達が多ければ良いと言うものではないので、親友が片手弱くらいの人数が居た事は幸せだと思っています。今でも数人は何年かに1回会っていて、みんな年齢を重ねたけれど、大学当時の雰囲気そのままで話をしていても時の流れを感じません。 唯一言える事は僕より皆、偉くなったってことでしょうかね。数名の仲間と受験勉強をし、国家試験に合格、そして僕は大学医局に入ることなく高知県の有名救急病院、近森病院内科に就職することになりました。

社会人生活最初の場所でした。今でも高知県では一大勢力の大病院、ここでの経験は今でも僕の財産の一つとなっています。詳しい仕事の時の話はまた追ってお話ししようと思います。 近森病院の内科で研修し、そして妻と出会い結婚、子供の医療に携わってみたいとの思いで内科から小児科に科を変更しました。 きっと僕には大人を診察する能力がないというか、目上の方の人生に寄り添うだけの器がないというか、内科での適性の無さを自分で感じたためだと思います。

残念ながら近森病院には小児科がなく、地元の兵庫、兵庫県立こども病院小児循環器内科にお世話になる事になりました。 その循環器内科の部長先生との出会いも僕にとっては重要で、今の子供たちを診察するスタイルの根幹になっているといっても過言ではありません。 小児循環器内科ですから多くの心臓病の子供たち、術前術後の子供たち、助からない子供たち、多くを診てきました。 様々なドラマが一人一人にあり、それは明るかったり暗かったり・・・子供の生死という物は本当に文章では書けない深さというか半端ない喜び悲しみがあると勉強しました。 こども病院小児循環器内科でそれなりのポジションになるまで頑張るつもりでしたが、ひどい腰痛、ヘルニア発症、全く仕事が出来なくなってしまいました。 諸先輩方にご迷惑ばかりお掛けする様になり、徐々に居場所を失い・・次の職場を模索していた中、三田市の三田市民病院が私を拾ってくれました。

三田では体の事も気遣ってくれ、時には休ませてもらいながらゆっくりゆっくり回復してきました。今はもう大きな腰痛の発作もなく元気に仕事しています。 これも三田の上司が気遣ってくれたお陰だと感謝しています。三田市民病院は地域に基幹病院で新生児からいわゆる一般小児まで幅広く対応し、もちろん夜間救急もありました。 部長が退職したり、上司が産休で1年休んだりと色々な波はありましたが、何故か辞める事無くしがみつき、10年以上在籍させてもらいました。 本当にこんな僕を長い間、雇用してくれた三田市民病院には感謝しかありません。この病院でいわゆる一般小児という風邪、胃腸炎、喘息、肺炎、痙攣などを多く経験したわけですが、 子供が少なくなった影響か、薬が良くなってきた影響か、入院する子供たちも減り、救急車で運ばれる子供たちもゆっくり減ってきました。 途中でわけあって三田市から引っ越しした僕は片道1時間以上かけて通勤していたわけですが、その労力と仕事の濃さが比例せず、自分の存在意義を三田に感じなくなってしまったのが退職の大きな理由ですかね。 まあ、言えない事情は山ほどありますが、積もり積もって区切りをつけることにしました。

退職後、普通なら違う病院に就職すれば良い話なんでしょうけれど、また一からの人間関係などを新たな病院で築き上げるのも、もうしんどい、医者人生もそんなに長いわけではないから好き勝手やるのもアリかなと思い、 独立する事になりました。その過程は開業奮闘記をご覧ください。まあまあ大変な作業でしたが、今は懐かしく思います。

開業して3年目となりますが、まだまだ課題も可能性もあって色々と模索中です。有り難い事に数多くの子供たちを診察し治療させてもらっていますので、おの小児科の存在意義はあると思う。 でも、僕の目標というか当院のあるべき姿は現状ではなく、まだまだ磨かれたものでないといけないと思っています。現状にあぐらをかかず、前へ前へ、上へ上と進んで行きたいと思います。 引き続き、おの小児科をよろしくお願い致します。

毎日、自宅から今津へ向かいます。鍵屋さんの隣の屋号のない立ち食いそば屋さんに寄ります。スタミナそばとおにぎりを頂き、2号線を利用してクリニックへ向かいます。 ちなみに金曜日は定休日なので、高速に乗り伊丹市内の都そば寄ります。お昼は仮眠しますので、食べたり食べなかったり、夜は毎晩とり鍋とお酒を頂きます。

水曜日の午後は休診ですので、ジェットスキーで遊ぶ時間に充てています。一年中、ジェットスキーで海に出ていて、四季折々の海の景色を楽しんでいます。 もっぱら冬場は釣りですが。このジェットスキーと万年筆、東南アジアのタイ バンコク旅行が僕の趣味かな。あ、後は愛車のバンデンプラプリンセスがありました。

そんな1974年1月11日生まれ、やぎ座、O型の僕です。


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